十月になった。
後期が始まっているが授業は殆どなく、
構内で知り合いに会う機会は減っていた。
俺は、相変わらず卒論に取り組んでいて、
土日も、大学図書館に足を運んだ。

その日も、日曜日で、
いつものように
午前中から図書館で調べ物やコピーを取ったりしていた。
午後には用事も片付いて、
大学最寄り駅の近くにあるマクドナルドで遅めの昼食を摂る事にした。
二時を過ぎているせいか、店内は空いていた。
窓際の席を選んで座る。

ガラスの向こうに行き交う人を眺めながら、
ハンバーガーを噛り始めた。
夏の暑さはすっかり遠退いて、道行く人達は長袖が多い。
テイクアウトにして公園とかで食べてもいいな、なんて考えていた。
ぼんやりとしながらも半分は卒論の事が頭にあった。
いつの間にかハンバーガーが片付いていて、
残ったコーヒーを飲んでから席を立とうとしていた時、
不意に肩を叩かれて振り向いた。
「やっぱり俺くんだぁー」
そう言って、俺の前の席にアヤが座った。
俺は四人掛けの席に座って隣に鞄を置いていたんだけど、
彼女もそれを真似して鞄を置いた。
シャツにジーンズという今まで見た中では比較的ラフな格好。
彼女は向かい合うと、驚いている俺に構わず、一方的に話し出した。
この近くまで買い物に出て、ちょうど食事が終わった所。
洋服を買いに行ったけど、いい物が見付からなかった。
一緒に行った友達とは食事が終わると別れた。
帰る前に、この近くにある洋服屋に一人で行ってみようと思っている。
その店に向かう途中で、
そこの道を通ったら、外から俺くんの姿が見えた。
――などと一気に語ってしまうと、
「で、俺くんは何してんの?」と訊いてきた。
俺は現状を簡単に説明する。
「じゃあ、この後、予定は?」
特別な予定はない、と答えると、飯でも行くか、と言い出した。
(今、まさに食事中なのに?)
俺は、そう訊き返すと、アヤの行きたい店に寄って、
駅まで戻って、電車で、いつも飲んでいる駅まで戻れば、
夕食にもいい時間だろう、という事だ。
彼女の昼食は軽いものだったし、
俺が今、食べたものも量が多くないから、
少し時間が経てば、お腹が空いてくるんじゃないか、と言う。
正直な所、何となく気が進まないのもあったが、
断る尤もらしい理由も思い付かない。
何か口実を考えている内に、彼女は俺の腕を取って席を立たせる。
「じゃあ、決まりね」
そう言うと、さっさとトレイやゴミを片付けてしまった。
俺は、自分の鞄と彼女の鞄を持って、後を追う。
「ありがと」
彼女に鞄を渡すと礼を言って、目的の店まで俺を案内した。
その店は、マクドナルドから
歩いて二、三分の場所にある小さな個人経営らしい店だった。
彼女は、ほんの五分くらいで見切りをつけてしまい、店を出た。
それから、駅まで戻る道すがら何軒かの店に入った。
それは、洋服屋や雑貨屋で、どれも十分ほどで見終わってしまった。
最後に、駅から一番近い洋服屋を空手で出てくると、
「今日は駄目ね」と言って不満そうな顔を見せた。
気に入った物がなかったらしい。
俺は慰めの言葉を掛けた。
そんな日もあるよ、みたいな感じで。
すると、彼女は俺を見上げる。
「まぁ、俺くんが、そう言うなら許してやるか」

それから、俺達は電車に乗って、
アヤの家の最寄り駅である二つ隣の駅まで行った。
食事をしたり、酒を飲むという事になれば、
普段、飲み会が行われている駅が便利なのだが、
そこは行き慣れているので勝手がわかっている半面、
飽きてしまってもいた。
すると、アヤが、いい店を紹介すると言い出したので、
俺は、それに従う事にした。
それがアヤの家の最寄り駅近くにある店だった。
改札を抜けると、先導するように彼女が歩いて行く。
何度か送って来た時に、
この駅で降りた事はあったが、彼女の家までの往復だったので、
現在、歩いている辺りは殆ど様子がわからない。
彼女の背中を追って行くと、
何度か角を曲がった細い通り沿いの店の前で止まった。
木の大きな看板が立てられていて、
そこに毛筆で店名が書いてある。
あちこち寄っていたので、もう五時を過ぎていた。
営業時間を見ると、ちょうど、開店したばかりのようだ。
「いい感じの店だね」
「でしょ?」
俺達は揃って店内に入った。

メニューを見ると、和食を中心にした居酒屋という感じ。
鍋物もあったし、酒の種類も豊富だった。
ビールと幾つかのつまみを頼む。
早い夕食だったが、
歩き回った上に時間が経過したのもあってか、御互い勢いよく食べた。
四人掛けのテーブルを埋め尽くした皿が次々と片付いていく。
俺達は、向かい合って箸を伸ばし合った。
食事中は、彼女の買い物話と大学の話をした。
時々、卒論や研究関係の話になって、
ここは、こうじゃないか、みたいな議論が交わされた。
それから、
彼女が俺の個人的な事を訊いてきたので、それに答えたりした。
出身地や家族構成や趣味などだ。
サークルの話は出なかった。
俺からもしなかった。
エリの話も出なかった。
そんな感じで時間が過ぎた。
彼女は自重しているのか、酒を二、三杯しか飲んでいない。
これは、普段の彼女からすると、想像を絶する少ない量だ。
途中、彼女が提案した飲み比べを、
俺が断ったのも原因かもしれない。
それに、あの男がいないから酔う理由もないのだろう、と思っていた。
もう大分食事も進んで、あと一品か二品で終わりだろうか、
と思っていた頃、彼女が俺に言った。
「ねぇ……携帯見せてよ」
俺は不審に思ったけど、ポケットから携帯を取り出した。

今まで、何度か思った事だが、彼女に頼まれると何となく逆らえない。
威圧的だ、というのではない。
何かあっても何となく許してしまえるような、そんな雰囲気がある。
例え、トラブルに巻き込まれたとしても、
あの猫目で「ごめんね」と上目遣いに言われると
仕方ないな、って思ってしまうのだ。
だから、だろう。
何度か彼女の家まで送らされる羽目になっても、
次に会った時に謝られれば水に流してしまっていた。
愛情とも違うし、憎めない奴、という言葉でも片付かない。
きっと、エリの方でも、似たような気持ちを持っているのではないか。
それは、俺の勝手な想像だったが。
しかし、そうでなければ、エリが、
あれだけアヤの世話をするのが説明出来ないような気がした。
それとも、俺の知らない事情があるのだろうか。

俺が携帯を見せるようにすると、
彼女は素早く対面から手を伸ばして、それを取り上げた。
「おいっ」
そう言って取り返そうとすると、
俺の届かない所で携帯を触り出した。
「何する気?」
別に見られて困る訳ではなかったけど、気分のいいものではない。
すると、彼女は含み笑いをして言った。
「私のアドレス入れてあげるよ」
「えっ……」
「何?……何か文句あるの?」
少し睨まれる。
僅かに頬が赤い。
「いや、そうじゃないけど……」
(だったら最初から、そう言えばいいのに……)
心の中で呟いたが、彼女の好きにさせた。
それから、
彼女は俺の携帯のボタンを何度かいじったりしていたけど、
急に変な声を上げて俺の方を見た。
「何これ?」
「何?なんか変?」
俺は携帯を覗き込むように身を乗り出す。
「あんた、友達いないの?」
憐れむような眼差しを向けてくる。
俺は意味がわからず首を傾げた。
すると、彼女は携帯の画面を俺の方に見せて、言った。
「だって、これしか登録ないじゃん」
画面には俺の電話帳が映し出されている。
彼女が言うのは、その登録数が少ないと指摘しているのだ。
「えっとぉ……実家?とバイト?と……あと男?
……これ全部合わせても十件くらいしかないじゃん」
そう言って、頻りに携帯を操作している。
「えっ?……シークレットにしてるとかじゃないよね?」
俺は首を振った。
何度かボタンをいじっていた彼女も、漸く顔を上げた。
「俺くんって、本当に現代人?」
彼女の瞳が愉快そうに光った。

俺は、その理由を簡単に説明した。
少し前に携帯を失くして、バックアップもなかった事。
それ以降、新しく知り合った人が少なく登録する機会もなかった事。
自分の行動範囲が大学、バイトと狭い事。
それらの理由で、
あまり携帯を使わなくても不便を感じない事などを話していった。
そう言えば、
最近になって、サークルの主催者の男とアドレスを交換したくらいで、
それ以前となると、ちょっと思い出せない。
俺の話が終わると、彼女は呆れたように笑い出した。
「そうなんだぁ……
いやぁ、私さ、こんな登録が少ない人、初めて見たから、
ちょっと驚いちゃって…………ごめんね」
両手を合わせて軽く頭を下げる。
それから、口の中で何度も「そっかぁ」と呟いた。
そして、何度か頷いた後、
「じゃあ、この携帯は、私が女子一号だね」と言った。
彼女の顔は、
徒競走で一位になった時のような、ある種の誇らしげな影があった。
きっと、そんな下らない事でも『第一号』という響きに、
何かしら彼女だけがわかる優越感があったのだろう。
「そうだね」
「俺くん、これからは遠慮なくメールでも電話でもしてきたまえ」
「はいはい」
「……はい。これ私のアドレス入れておいたから、後でメールしてよね」
「うん」
「それから、パソコンもあるでしょ?」
「持ってるよ」
「そっちのアドレスも送っておいてね」
「何で?」
「そっちの方がいい場合もあるでしょ?私も後で送るからさ」
「わかった」
俺は、そう約束をして携帯を受け取った。

店を出ると、すっかり暗くなっていた。
夏は、もう遠い昔だ。
念の為、彼女を家まで送って行った。
何度も通っただけあって慣れたものだ。
きっと、案内なしでも彼女の家まで楽に辿り着けるだろう。
少なくとも彼女の家から駅までは絶対に迷わない自信があった。
「ここで、いいよ」
アパートが見えてくると彼女は、そう言った。
俺は、それに従って踵を返す。
御互い「さよなら」と言い合って別れた。
駅への道は人通りが多い。
今まで、この道を通った時は、もっと遅い時間だったから、
こんなに早い時間に、この道を歩いているのが不思議な気がしてくる。
そんな事を考えていたら、いつの間にか駅に着いた。
見上げると、漆黒の高い空がある。
ホームに下りると、すぐに電車が来て、俺は、それに飛び乗った。

アヤからアドレスを渡された次の日に、早速メールを送信した。
件名には、自分の名前を。
内容は携帯のアドレス、電話番号、パソコンのアドレスを書いた。
他には何もない。
至ってシンプルな内容だった。
携帯のアドレスは表示されるだろうから必要なかったが
念の為、付けておいた。
彼女の返信は、その日の内に来た。
件名、内容とも俺のメールと大差ないものだった。
ただ、「いつでも連絡したまえ」という言葉と顔文字があった。
ほんの少しだけ自分の世界が広がったような気になったが、
交換したアドレスは、殆ど活用されなかった。
と、言うのも、俺は相変わらず卒論に取り組んでいたし、
彼女の方も似たような状況みたいだった。
パソコンの方のアドレスは主に学校関係の連絡などに使っていたから、
時々チェックをしていたけど、彼女からのメールは届いていなかった。

そうしている内に、十一月が終わって師走になった。
ここ一ヶ月、サークルの飲み会にも顔を出していなかったので、
気分転換の意味もあって参加する事にした。
参加者は十五人程度。
色々忙しいせいか、人は少なく見えた。
アヤはいない代わりに、エリがいた。
遅れてくるのか、と思っていたが、彼女は最後まで来なかった。
途中で俺は、アヤが来ないのかとエリに訊ねた。
「なーにー?俺くん、気になるの?」
そう言って、にやけながら、今日は来ないよ、と教えてくれた。
どうやら後期に取った授業のレポートが終わらないみたいだ。
卒業に関わってくるから終わらせない訳にはいかない。
その日は、エリと二人で話し合った。
彼女の卒論は順調で完成間近な事や単位も問題ない事を聞いた。
どちらかと言うと、アヤの方が心配で、
幾つか落としそうな授業もあるらしかった。
「でも、大丈夫だと思うよ」
あまり危機感がない調子だったから、おそらく平気なのだろう。
余裕のあるエリからするとアヤの状態が不安に見えるに違いない。
飲み会に参加した他の人達の話も聞こえた。
一番の話題は
来年度、誰が、このサークルの中心になっていくのか、という事だった。
何人か候補の人間がいるが、
彼等が引き受けなければ、このサークルは終わってしまうだろうし、
仮に引き受けてくれても、
人が集まらなければ続けていくのは難しいだろう。
俺は、皆が集まる目的がない事が、
このサークルの価値だと思っていた。
成人した人間が毎週のように意味もなく集まってきて、
あれこれと好き勝手に語り合う事に意味があると思っていた。
しかし、反対に、
集まる意義もないのに人が集ったって時間の無駄だ、
と言う人間もいるとも思っていた。
だから、このサークルが受け継がれない可能性もあるだろう。
それは仕方ない事だ。
他にも卒業や卒業後の進路に関する話題が出た。
「何となく寂しいね」
エリは交わされる話が、そういう内容ばかりなのを嘆いた。
俺も、それに頷いて同意する。
向かいの彼女を見る。
彼女の髪は会った頃よりは随分伸びていて、
今は、もう肩に届きそうになっていた。
そのせいで、妙な女らしさを漂わせている。
どちらかと言うと、彼女は、あまり酒を飲む方ではない。
酔って騒いで、というのを嫌っている風でもあった。
だから、こうして二人で飲んでいると、静かな席になる。
アヤがいないせいで、余計に落ち着いた雰囲気になった。
場も終わりかけになると、俺達は席を立った。
アヤと、噂の彼が気になったけど、
最後まで、どちらも姿を見せなかった。
別れ際、「今度は三人で、どっか行こうよ」とエリが言った。
俺は、それに頷いて彼女の乗る電車を見送った。

エリとの約束は、別の形で果たされる事になった。
師走も半ばを過ぎて、あと二週間で今年も終わるという頃、
俺達三人で食事をする計画が持ち上がった。
三人だけの忘年会という位置付けらしい。
アヤが発案し、それにエリが賛成して俺に話が回ってきた。
俺は、それに賛成だけして計画の殆どを彼女達に任せていた。
日時は一週間後の日曜に決まった。
約束の日が近付くにつれて、
会場になる店を予約した事や待ち合わせの時間などが、
アヤからメールで送られてきた。
直前に一度、
アヤから電話がかかってきて最終的な打ち合わせをした。

当日は、冬らしい日で、気温が低く空には厚い雲がかかっている。
午後になっても薄暗いままで、日差しは地上まで届いてこなかった。
予約をした店は、
アヤの家の最寄り駅から近い場所にあったので、
彼女の家が集合場所だった。
俺は、一番遠いエリと途中で合流して、アヤの家に向かい、
それから店に行くという段取りになっていた。
約束した時間の電車でエリと合流すると、アヤの家に向かう。
もう少しで降りる駅に到着するという頃、エリの携帯が鳴った。
彼女は駅に到着するまで待って、電車を降りてから掛け直す。
俺はホームの離れた所で電話が終わるのを待っていた。
彼女は通話が終わると、俺に寄って来て、
済まなそうに電話の内容を説明する。
エリの卒業後の進路は、大学院に決まっていた。
試験の結果も出て、幾つかの手続きも終えて、
あとは、自分の研究を続けていけばいい、という状態だったようだ。
その担当教官からの電話で、
研究関係の打ち合わせをしたい、という事らしい。
どうしても年内に決めておきたい事があったのが、
教官の都合で年内は今日しか余裕がなくなってしまったらしい。
最近では日曜日でも大学に行く事が多い彼女なので、
急だが出て来られないか、という話だった。
相談の結果、
エリの用事が済むまで、俺はアヤの家で待っている事にした。
一度帰るのも面倒だし、外で待っているような気温ではなかった。
アヤに、その事を連絡して俺達は別れる。
彼女は、もう一度電車に乗って、
俺は改札を出てアヤの家に向かった。

アヤの家に着くと、彼女は俺を招き入れる。
玄関までなら何度か入っていたが、こうして上がり込むのは初めてだ。
造りは1DKで、キッチンが広めなのが特徴的だった。
「適当に座って」
部屋に通されると空いているスペースを指して、アヤが言った。
小さなガラステーブルの前に座る。
彼女が淹れてくれた御茶を飲みながら、
駅でのエリとの遣り取りを、もう一度繰り返してアヤに聞かせた。
エリが電話で話してあったはずだが、他に適当な話題も思い付かない。
間を繋げるようにしながら、出された御茶を飲んだ。
「まぁ……とにかくエリからの連絡待ちだね」
アヤはベッドの端に座って、床に座る俺を見下ろしている。
それから、取りとめもない話をした。
中身があるようで、ないような、軽い話題。
彼女は、雑誌に載っていた洋服の話や見たい映画の話、
年末年始の予定や大学受験を控えている実家の妹の話なんかをした。
俺は、それを聞きながら、ふと前回の飲み会で
アヤの単位が厳しいみたいな話をエリから聞いていたのを思い出したので、
その辺がどうなっているのか尋ねた。
「うん、大丈夫……」
「あ、よかったね」
「……と、思う」
(思う、かよ!)
俺は心の中で突っ込んだ。
「あー、でもホントに大丈夫だと思うよ、うん」
彼女は何度か頭を掻いて、「心配かけてごめん」と言った。
そうやって一時間くらい話をしていて、
エリからの連絡を待ち侘びていた頃、アヤの携帯が鳴った。
正直、話題も尽きかけていた頃だったから、
携帯が鳴って「エリだ」とアヤが言った時には助かった思いがした。
彼女は通話を始めると何度か頷いた後に一瞬驚いて、
それから「ちょっと訊いてみる」と言って、俺の方を向いた。
「なんか……まだ、結構かかりそうなんだって……」
「あ、そうなんだ……どれくらい?」
「ちょっと、はっきり、わからないくらいなんだけど……」
「うん」
「で……なんか雪も降ってきてるらしいし」
「えっ?」
俺は、反射的に窓の方を向いた。
彼女は立ち上がって窓に近付きカーテンを開いた。
俺も傍に寄って二人で空を見上げると、
確かに白いものがちらちらと降ってきているのが見える。
「ホントだ……」
無意識に呟いた。
「だから、申し訳ないけど延期に出来ないか?って言ってるんだけど」
相談の結果、エリの提案を受け入れて、今日の予定は止める事にした。
予約した店にはアヤの方から連絡を入れておく、という事で電話を切った。
「せっかく決めたのにね」
残念そうに溜息をつく彼女。
「まぁ仕方ないよ」
俺は慰めるように言うと、頭の中で今後の予定を検討し直した。
今日は夕食を外で済ますつもりだったから、自宅には何も用意してない。
帰りに何かを買っていくか、どこかで食べていくか、
どうしようか迷っていたら、「何か取ろうか?」と彼女が訊いてきた。
雪が降っているから、すぐ帰るよりは様子を見た方がいいし、
自分も、これから夕食のつもりだったからお腹は空いているし、
何も買い置きがないし、それだったら天候を窺いながら、
何か頼んで一緒に食べていかないか?という事だった。
「雪はどうなのかなぁ?」
その意見には賛成だったが、これから更に雪が降り続くようだったら、
すぐに帰った方がいいんじゃないだろうか。
「ちょっと待ってて」
彼女は、テーブルにあったパソコンを起動させた。
暫く待っていると静かなファンの音がしてデスクトップが現われる。
壁紙は子猫の画像だった。
灰色で縞模様の猫達が可愛らしく転がっている。
ネットに繋ぐと、
天気予報のページを開いて、気象情報を確かめ始めた。
「うーん、『所によって雨または雪』ってなってるから、
暫く待っていれば止むんじゃないかな?」
「そう?」
「うん、どっちにしても明日には晴れるみたいだし、
これを見る限りは一時的っぽいけどね」
結局、天気予報と彼女を信じて、
暫く、ここで待機させてもらう事になった。
「何にしようか?」
彼女は、どこかからパンフレットみたいな物を出してきて俺に見せた。
それはピザ屋の広告で、俺達は二、三人前のピザを一つ頼んだ。
飲み物は彼女が用意して、ピザが届くのを待った。

ピザは三十分で来なかったが、天候の割りには早く届いたと思う。
配達の男は現金を受け取ると、寒そうに出て行った。
それから、
彼女が淹れてくれた紅茶を飲みながら一切れずつ食べ始めた。
少し食べてから、カップに手を伸ばして一口飲むと、変な香がした。
「これ、何か入れた?」
俺が問うと、彼女は俺と同じように一口飲んでから、それに答えた。
「焼酎割りです」
「いや、普通のでいいんだけど」
「あったまるかな、と思ってね」
「充分あったかいし」
ピザを頼む頃には、
彼女の部屋で落ち着いていく方向で話が決まっていたので、
エアコンをつけてカーテンを閉めていた。
陽は落ちて気温が下がってきていたが部屋の中は暖かく、
俺の着てきたダウンは部屋の隅で丸まっていた。
その上、焼酎割りだ。
暑くなって、二人とも上着を一枚脱いだ。
意外に、酒とピザの相性が良くて、
俺達には量が多いと思われたピザは簡単に片付いてしまった。
空き箱を片付けて、食後にもう一杯紅茶を出してもらう。
今度も焼酎割りだ。
「今日、残念だったね」
彼女は俺に、そう言って予定の変更を悔しがった。
「でも、また今度があるよ」
「そうだね」
それから、三十分くらい、エリの話や大学の話をしていた。
ふと、外の様子が気になって見てみると、まだ雪が降っていて、
うっすらと道路に積もりつつある、という感じだった。
心なしか、さっきよりも粒が大きい気がする。
窓の傍から振り向いて報告する。
「まだ降ってるね」
「そう……」
彼女は気のなさそうな様子で、何となく上の空だ。
ベッドで足を組みながら足元に視線を向けていた。
カーテンを戻して、元の位置に座り直す。
俺は、どちらにしても、
そろそろ帰った方がいいんじゃないか、という気になっていた。
アヤにも都合があるだろうし、全く帰れないという天候でもなかった。
電車も止まっていないと思う。
今日の事は残念だったが、
彼女にも言ったように次の機会もあるだろう。
それを、いつ切り出そうかと考えていた時に、
彼女は俺に変な事を訊いてきた。
「俺くんってさ……彼女いないよね?」
何の脈絡もない突然の発言に意表を突かれた。
戸惑いながらも反射的に頷く。
すると、彼女は俺の携帯の登録状況から、そう判断した、と言った。
なるほど。
内心、納得する。
しかし、だからって、それがどうしたというのだろう?
彼女の次の言葉は、それに続く内容が来るものと予期していたが、
予想に反して全く関係のない問いを俺に投げ掛けてきた。
「私って……女として見れないかな?」
「は?」
「だから……例えば、よ。
例えば……私が俺くんに付き合って……とか言ったら、どうする?」
「考えた事もないし……」
「そこを考えてよ」
「うーん…………わからないなぁ」
戸惑っている俺に、彼女は詰め寄る。
「じゃあさ、……じゃあ今、こうして部屋に二人でいるじゃない?」
「うん」
「こう……何か感じたりしない?」
「何かって?」
「だからー……ムラムラッとか、襲いたくなったりとか……」
「いや、殴られそうだし……」
俺の冗談に彼女は笑わなかった。
彼女は一度、小さな溜息をついた後、
カップを傍に置いて身を乗り出すように語り出す。
そこからは、俺に対する言葉が更に直截的になって、
最近ヤッタのはいつだ、とか私に魅力を感じないのか、とか、
どういう女が好みなんだ、とかいう質問攻めになった。
俺は何とか誤魔化して、それらの質問を交わしていたが、
業を煮やしたように彼女はベッドを降りて、俺に近付いてきた。
そして、
胡坐をかいて座っている俺の正面に腰を下ろすと、
両手を俺の肩に回して顔を覗き込んできた。
外出する予定だったから、
彼女の服装はジーンズにシャツという格好だったのだが、
その上着を脱いだ為、今、着ているのは薄い長袖だけだった。
しかも襟元は大きく開いていて、
そんな風に向かい合って下から見上げられると、
自然と胸の谷間が覗けてしまう。
「どうなの?」
更に、彼女は見詰めながら問い掛けてくる。
背中に回された両手は絞られるように縮んできて、
そうすると俺と彼女の距離は次第に埋められていった。
もう御互いの顔は目の前で、膝元は密着しているし、
俺が手を伸ばして抱き寄せれば、簡単にキスが出来そうな体勢だった。
形は違っても、あの日、初めてキスした時の情景が思い起こされた。
彼女の魅力の有無を問われれば、否定的な意見は出るはずもない。
それは、こうして間近に迫られなくても充分に伝わってきた。
しかし、
女性的な魅力と対象の好悪は比例しないのではないだろうか。
美しいものを全て好きになるとは限らないように、
醜いものを全て嫌うとも限らなかった。
彼女に女性的な魅力がある事と、
俺が女性として彼女を見るかどうか、という事は別問題のように思う。
それを何とか言葉にして伝えたい、と思った。
しかし、それを上手く、簡潔に伝えるような言葉を思い付かない。
下手な表現をして誤解されるのを、俺は恐れた。
――どこからか、いい匂いがする。
ウェーブした長い髪か、首筋か、それとも回された両手からなのか。
その香は二人の周囲を取り巻いて、絡みつくように拘束するように、
俺に迫ってくるように感じられた。
蜘蛛の巣に捕らわれた蝶の姿が頭に浮かぶ。
前を見ると、彼女の瞳が、こちらを見返している。
その瞳は蜘蛛よりも美しく、俺は射竦められたような思いがした。

そうして、どれくらい無言の時間が過ぎたのかわからなかったが、
俺は、やっと彼女に反撃出来るだけの言葉を見付けた。
「アヤちゃんは、好きな人がいるんだろう?」
なるべく胸元を見ないように言ったので、
結果的に彼女を睨むような形になってしまった。
「何が?」
彼女は最初、意味がわからない、という顔をした。
俺は、そのあからさまな惚けぶりが気に入らなくて、
似たような言葉を繰り返した。
なるべくエリから聞いた話とはわからないように、
ぼかしたり、こっちは何となくわかっているんだ、
という態度を見せながら、エリからされた男の話をした。
その話を聞いた時から、もう大分、時間が経っていたが、
かなりの部分を正確に思い出す事が出来た。
話の後に、驚くアヤの姿が目に浮かぶ。
しかし、それを黙って聞いていた彼女は、
俺の話が終わると、呆れたような顔を見せた。
「それ……きっと、エリから聞いたんじゃないの?」
そこまで、はっきりと言われれば否定もしづらいので、そうだ、と認めた。
見詰め合う二人。
まだ外で雪の降る音が聞こえた。
すると、彼女は一瞬の後に、
「もう、とっくにフラれたから」と切り捨てるような口調で言った。
それがあまりにも冷たく投げ捨てるような言い方だったので、
内容よりも、その口振りに驚いてしまった。
「そうなの?」
「うん」
「いつ頃?」
「んー、忘れたけど、三ヶ月くらい前かなぁ……」
それから、彼女は俺に、彼との事を話し始めた。
ある日のサークルで、飲み会に行ったらエリも俺もいなかった事。
何度か告白しよう、
と思っていたけどチャンスがなかったので言えずにいた事。
その日、勇気を出して、
彼が飲み会の席を外した時に追いかけて、告白した事。
そして、断られた事。
その時から、もう三ヶ月以上経っているせいか、
終始、淡々とした調子で彼女は語った。
俺は上手い言葉が見付からなくて、黙って彼女の話を聞いていた。
慰めた方がいいのか、
それとも彼に対して怒った方がいいのか、よくわからなかった。
そうして、彼女は最後まで語り終えたらしい所で、黙った。
雪のせいなのか、相変わらず静かで、
部屋の上部ではエアコンが乾いた音を立てて温風を吐き出している。

「私の話は終わりだけど、俺くんの答えは、いつ聞かせてくれるのかな?」
俺が俯いていると、彼女は首を傾げながら訊いてくる。
俺は、暫く、そのままでいたが、
彼女はもう一度、俺の鼻先まで顔を近付けてきて、
「私って女として見られない?」
と同じ質問をした。
それでも俺は黙って、湧いてくる色んな感情を処理し続けていたけど、
やがて決心して、さっき彼女に対して抱いた感情を順番に話し出した。
彼女に魅力がある事や、
女として見られない訳がない、という意味の事を言った。
なるべく誤解がないように、
言葉が足りないと感じたら何度でも同じ所を繰り返した。
そうして、話しながら、
これだけ彼女の魅力を語れるのに、それでも、
俺が彼女を女として見られないような理由は何だろう?と考え続けた。
しかし、一方で俺は、それが表面的なものだと感じている。
本当は、真の理由に気付いているのに、
あえて、それに気付かない振りをして
必死で別の理由を探しているのだ。
もっと、他人が納得出来る理由。
もっと、奥底にある自分を誤魔化せる理由。
そんな理由を探しているのだ。
俺が彼女を女として見られない理由。
それは。
きっと、それは、気になる人がいるからだろう。
心の底に沈殿したように残っている面影があるからだろう。
最後に、俺は、その人の話をした。
それは、もう何年か前の出来事だったから、
まるで、どこかの倉庫に仕舞っておいて埃のかぶったような感情を、
そっと取り出して披露するように……、
凍り切った情熱の塊を静かに解凍して蘇らせるように……、
ゆっくりと彼女に対して語り出した。
その人の事、その人との出会い、
俺が如何に、その人を好きだったか、その人を大事に思っていたか。
そして現在、どういう状況にあるのか。
それらを簡潔に纏めて、彼女に話し出した。
今まで誰にも、そんな話をした事はなかったけど、
そうする事が彼女に対しての礼儀のような気がした。
彼女は黙って俺の話を聞いていたが、
俺が黙ると、「それで、おしまい?」と訊いてきた。
俺は小さく頷いた。
そう言えば……この時期だったな。
彼女に話した事で、改めて古い記憶が呼び覚まされた。
まるで、自分が昔に戻ったような感じで、
あの子の存在をこれほど身近に感じたのは、
ここ最近ではなかった事だった。
「ふーん……、俺くんにも、そんな事があったんだね」
彼女は、そう言って立ち上がる。
傍のテーブルに置いてあった二人のカップを取り上げて、
すっかり冷めた御茶を淹れ直してくる。
数分間、部屋は沈黙に包まれて、
何もかもが活動を停止したみたいになった。
彼女は戻ってきて、俺の傍に二人分のカップを置くと、
また俺に寄り添うような、元の体勢に戻った。
「でもさぁー」再び俺の肩に手を回してくる。
「俺くんは、その人と今も連絡、取ってるの?」
俺は否定した。
「じゃあ、何か関係が改善されるような努力をしてる?」
それにも首を振った。
「じゃあさ、冷たいようだけど、諦めた方がいいんじゃないかな?」
彼女の口調はとても優しくて、
他人事ではなく、俺の中の、どこかに沁みてくるような感じがした。
「ちょっと残酷だけどさ、
俺くんの言う話が本当なら、結構可愛いんでしょ?その子」
俺は、そこで初めて頷いた。
「だったら、もう次の人が見付かってるんじゃないかな。
女の人って、ただでさえ過去を振り返らない所があるから、
三ヶ月とか下手すると一ヶ月とかでも
次の人にいっちゃうって場合も普通にあると思うし……。
その上、見た目もいいなら、
例え、その彼女さんが、そういう気持ちじゃなかったとしても、
きっと周りが放っておかないと思うんだよね」
彼女の言う通りだ。
もう、それは何回も頭の中で考えてきた事だった。
ずっと、繰り返し考え続けてきた。
だから……。
『そんな事は、わかっている』と言い返したかった。
でも、一方で、
俺は誰かに、そう言って欲しかったのかもしれない、
という思いも浮かんだ。
過ぎ去ってしまった、
どうにもならない事にしがみ付いている自分を誰かに叱って欲しい。
みっともない、と蔑んで欲しい。
終わった事だと諦めさせて欲しい。
その気持ちは、彼女に言われるまで、ずっと隠されていて、
その時になって初めて気付かされた自分の秘めた欲求のような気がした。
「私も最近、色々考えたけど、
一人の人に決め付ける必要なんてないんじゃないか、って思うよ。
今の私が言っても振られた女の強がりにしか聞こえないだろうけど、
結構自分に合う人って探せば見付かるものだし、
最初は嫌っていても、会っている内に段々、
この人とは仲良くなれるかも……って思う時あるでしょ?」
彼女はカップに手を伸ばす。
そして、一口飲んだ。
「だから……どんな人が自分に合うかなんてわからない訳だし、
色んな人との付き合いを広げていって
気長に自分に合う人を探していけばいいんじゃないかな」
「そうだね……」
俺も彼女に合わせて紅茶を飲んだ。
二人とも黙り込む。
俺は言いたい事を言ってしまった。
彼女も同じだろう。
そうしていると、彼女は俺を見て笑いながら言った。
「私達……、フラれた者同士だね」
その言い方が何となく面白くて、俺も微笑む。
悔しさとか惨めさとかは彼女にはなかっただろうし、俺にもなかった。
あえて言うなら、御互いの心情を吐露する事で、
一つの区切りを付けようとするみたいな
二人の意志が、そこにあったように感じた。
「まぁ……ね、仕方ない事もあるよね」
彼女は俺に伸ばした腕を畳むように巻き付ける。
そうすると、
俺との間に出来た空間が狭まって、一層、彼女の顔が近付いた。
何か言うのかと思って、黙っていると、
彼女は、そのまま目を閉じて俺にキスをしてきた。
避ける間もなかった。
柔らかい唇が押し当てられる。
彼女の香が一段と強くなって、それに魅了されるような、
陶然としたような気持ちになりかけた所で、
ゆっくりと唇が離れていった。
それから、口の中で小さく笑ってから、彼女は俺に囁いた。
「これで…………もう忘れようよ」
「何を?」
「御互いの相手を」
「忘れ……られるの?」
「うん」口の端を上げる。「大丈夫。……だって別の人と、
こんな事しておいて、今更あの人を好きだ、とか言えないでしょ?」
確かに、その通りかもしれない。
納得しそうになった瞬間、ある場面が頭に浮かんだ。
「でも……俺にしたじゃん」
「何を?」
俺は初めて彼女とキスした時の状況を話し出した。
「あの時は彼の事、好きだったんでしょ?」
「んーー、あの時は、ヤケになってた時期だったから」
「何で?」
「なんか……告白するチャンスとか勇気とかがなくてイライラしてた」
「そっか……」
「でも、今は、あの頃とは違うし」
「そうかもね」
「だから……俺くんも……いいよ」
長い睫毛が伏せられた。
「何が、いいの?」
俺が訊くと、彼女はすぐに目を開いて怒ったように言う。
「だからー、私がアイツを忘れる為に、今、したでしょ?
だから今度は俺くんの番だよ」
つまり、同じ事をしろ、と。
「いや、俺はいいよ……。もう忘れるとかじゃないし」
「じゃあ、その人の事、もう気にならない?」
「……うん」
それは、本当に自分の本心だっただろうか?
今、考えても、よくわからない。
「じゃあ、余計に大丈夫じゃん」
「どうして?」
「だって、まだ気になってるならマズイけど、
何とも思ってないなら、私としても平気でしょ?」
「んー」
そうかもしれない。
御互い恋人もいなく好きな人もいないなら、
ここで俺が彼女とキスをしても誰にも咎められないはずだ。
理屈としては通っている。
俺は迷った末に、彼女の唇に顔を寄せてキスをした。
それは、瞬間的に触れ合う、鳥のようなキスで、
俺が離れてしまうと、彼女は露骨に不満そうな顔をした。
「そんなんで、忘れたって言えるの?」
苦笑いする俺を睨みつける。
「それとも……私とじゃ、できない?女として見れない?」
三度目だ。
もう、同じ言葉を今日だけで、三回聞いている。
もしかして、俺のこうした態度は、
彼女の自尊心を酷く傷つけているのかもしれなかった。
はっきりとは言わないけど、
彼女は内心、思い悩んでいるのかもしれない。
どう言葉を飾ってみても、俺が彼女の要求を拒絶する事は、
女性としての彼女を否定する事に等しくなっていやしないか。
そう考えて、俺は漸く決心をした。
彼女の肩を力強く掴むと、そのまま抱き寄せて、キスを返す。
それは一分ほど続いて、
その間、彼女は俺にもたれかかるように身を任せていた。
俺は、ただ、彼女に意識を集中していて、
重なった唇と、掴んだ両肩に垂れる髪と、
彼女の香の事だけが頭の中を占めていた。
その間、
昔の女の面影は頭から消えていたな、と後から振り返って思った。